「健全なる精神は健全なる身体に宿る」という言葉を聞いたことがある方は少なくないだろう。古代ローマの詩人ユウェナリスの言葉が元になっているものだが、実は現在は本来の意味とは異なる使い方をされることのほうが多い。現在は文字通り「健全な精神を求めるならば、健全な身体が必要である」という意味の慣用句として用いられることが多いが、これは誤った使い方である。さらにひどいものになると戦時中に戦意高揚のために「身体が健全であるなら、自ずと精神も健全となる」という意味で恣意的に利用された歴史がある。
本来の意味は「(祈るのであれば)健全なる身体に健全なる精神をと祈れ」ということのようだ。
「家内安全」は祈るべきだが「商売繁盛」のようなものは自ら成し遂げるべきこと、と詩人ユウェナリスは言いたかったのかもしれぬ。
ただ、今なお「健全なる精神は健全なる身体に宿る」という誤った意味で用いられ続けているのは、それが全面的に正しいとはいえないにしろ一部の真実を含んでいるからだろう。病や障がいを持っていたら精神も健全ではないなどというのはもちろん完全な誤りである。けれども一方で、肌の状態や表情、体の使い方、姿勢などからその為人(ひととなり)を断片的にだが見出せることもあるということを私たちは経験的に知っている。見出せるか否かは別としても少なくとも私たちが日々それらの様相から人を判断しようとしていることは事実だ。このことは、「人を外見で判断してはいけない」のような道徳レベルのものではなく、深く私たちの本能に刻まれたものなのだ。
こういう研究がある。運動競技で勝利した者はよく両手を上にあげて自らが勝者であることや喜びを表現するが、生まれつき盲目の人も競技で勝利した際にはこのポーズをとることが分かっている。誰かがこのポーズをしているのを見たこともないにもかかわらずである。
こういった研究ももちろん意味のあることだがこのような研究結果を俟たなくとも私たちは、人が力を誇示しようとする時は顎を挙げて胸を張り肩で風を切って歩くことや、戦意がないことを示すときに肩をすぼめて背中を丸くし顔はやや下を向き体を小さくすることなどを本能的・経験的に知っている。
詩人ユウェナリスの言葉は現在、本来の意味とは異なる用いられ方をしてはいるけれども、体の状態が精神に及ぼす影響についてやはり部分的には真実を突いているのである。
では、整体は体の状態(以降、わかりやすく「姿勢」という)にどんなアプローチが出来るのであろうか。この課題は単に姿勢が改善されれば体の疲労を取ったり疲れにくい体づくりに繋がるからということにとどまらない。先に述べてきた身体と精神の関係を踏まえた時、そこには整体が心に対してどのようなアプローチが可能かという課題が包含されているということになる。
体の姿勢や歪みというものは遺伝と習慣(環境)の双方から生じてくるものである。習慣(環境)だけを見たとき「適応」というポジティブな反応である場合も多い。たとえば一日中同じ姿勢から動かないような仕事をし、それを20年、30年続けているとその作業に適した姿勢になる。つまりその作業でエネルギー消費がなるべく少なくて済むような体になってくる。これは飢餓を前提として成り立っている生物のシステム上、合理的な反応といえよう。「姿勢は治りますか」としばしば聞かれるが、今の姿勢が適応の結果であるならばその姿勢が生物としては正しい姿勢ということにもなる。ただ現代における私たちの生活は必ずしも飢餓を前提としてはいないため「生物として適応する姿勢」と「理想とする姿勢」に齟齬が生じているというわけである。
体のどこかに病気や怪我がない限り、姿勢を決めている大きな要因は2つ考えられる。
1つは、関節の柔軟性である。
関節は動かされないと数週間でみるみる硬くなってしまう。人間の骨格はもともと良い位置・適切な位置に戻ろうとする力を持っているが、関節の可動域が制限された場合、良い位置に戻ることが出来なくなり、次第に少しずれた位置に固定されていく。
2つ目は、良い姿勢を維持するための筋肉である。
骨格筋の内部には筋紡錘と呼ばれる受容器が存在し、筋肉の伸長状態を神経に伝える重要な役割を担っている。姿勢を維持するために、それぞれの筋肉の伸び具合を検知しているのである。つまり本人は何も考えなくても体中の筋肉が勝手に姿勢を維持してくれている。姿勢を改善しようとするのであれば、それぞれの筋肉に良い姿勢を覚えこませる必要があるということである。そしてそれを覚えこませるために、正しい立ち方や歩き方、座り方のコツがあるのだ。
これらのことから整体が姿勢に対してどのようなアプローチが出来るのかが見えてくる。つまり、一つは各関節をゆるめて柔軟性を取り戻すということ。そしてもう一つは良い姿勢を維持するためのコツを伝えることである。
整体といえばよく「矯正」という言葉が使われるが、これは「関節をゆるめる」という程度の意味として捉えておいたほうが良い。
「牛の角の矯正」とか「歯の矯正」「木の枝の矯正」など、どれも目標として定めた位置に向けて強制的に変化させていくものであって、ただゆるめるだけの施術は本来の矯正とは似て非なるものであるが、「矯正」という言葉を使ったほうが「正しい位置に戻してくれる」という期待が起こりやすいために使われているに過ぎない。もちろん、強度の側弯症に対して手術や器具を使った矯正は存在するので、これとは分けて考えて頂きたい。
整体が姿勢に影響を与え、姿勢が精神に影響を与えることは十分に考えられる。
以前、私が数回施術した男性の妻が後日来院し「主人はいつもすぐに感情的になって怒ってばかりだったが、こちらに通うようになって怒らなくなった」と驚いた様子で話しておられた。ご主人の心の変化は、整体・身体・精神の流れがうまくつながった結果だったのだろう。